瞑想と関係の深い「月」には10の功徳があると言われています。日々の生活や瞑想の中に月の持つ力を取り入れることで、効率よく能力を伸ばし、豊かな人生を送っていくことができます。
瞑想の十の徳が書かれた「一期大要秘密集」
仏教には「一期大要秘密集」にという著書がありますが、
その中に月の持つ中の功徳が書かれています。
①月の円満なるが如く 円満
月がまんまるで欠けるところのないように、心もまた常に円満であると観ずること。
心の内側に目を向ければ、自分自身にはなにも不足することがないことを教えてくれるのが第一の徳です。
②月の潔白なるが如く 潔白
月の清らかな白い光を見て、自分の心も本来そのように潔白であると観ずること。
自分自身は本来どこまで潔白であり、心には一つの汚れもついていないことに気づかせてくれるのが第二の徳です。
③月の清浄なるが如く 清浄
月が清浄であるように、心もまた同じように清浄であると観ずること。
たとえ、時に心が辛くても、それは月に雲がかかっていて見えないだけの状態です。雲の後ろには本来清浄な心があり、その清浄な心こそが本来の自分であると気づかせてくれるのが第三の徳です。
④月の清涼なるが如く 清涼
月が空に涼しく浮かび、清く穏やかであるように、心もまた同じように涼しく穏やかであると観ずること。
心は常に涼しく、感情の熱は慈悲の水によって鎮められることを教えてくれるのが第四の徳です。
⑤月の明照なるが如く 明照
月がその光で普く(広く)世界を照らしてくれるように、その光は心の隅々まで照らすと観ずること。
自分自身でも見えていない心の闇を照らし、その闇に光明を与えてくれるのが第五の徳です。
⑥月の独尊なるが如く 独尊
月が何にも頼ることなく独り空に浮かんでいると観ずること。
月のようになににも寄りかかることなく、自らを拠り所としてい生きることを教えてくれるのが第六の徳です。
⑦月の中に処するが如く 中道
月が偏りのない完全に調和した姿で存在すると観ずること。
月の姿のように偏ることなく完全に調和する考え方を保つことを教えてくれるのが第七の徳です。
⑧月の遅からざるが如く 速疾
月が速やかに先へと動いていくと観ずること。
月の進みのように自身もまた速やかに行動し、人生の目的を達成すべきことを教えてくれるのが第八の功徳です。
⑨月の巡転するが如く 巡転
月の巡転が止まることなく永遠であると観ずること。
月が巡るように、自らの心の働きもまた永遠であり、正しい教えに従い限りない功徳を受けていくことができると教えてくれるのが第九の功徳です。
⑩月の普(あまね)く現ずるが如く 普現
どこからでも同じ月を見ることができると観ずること。
どこから見ても月が一つであるように、心の本体は一つであり、この人生の全てはこの心こそが全てであると教えてくれるのが第十の功徳です。
月の十の功徳を瞑想的な段階として考える
上記の文章を読んだだけでは少し分かりづらいかもしれません。そこで、分かりやすく瞑想的な段階としてこの十の功徳を説明していきたいと思います。
①円満 ~自分に不足はないと知ること~
まずは自分には何一つ足りないものなんてないのだと理解するところから始まります。
坐禅は理屈は後、実践が先という感がありますが、
瞑想は理屈が先、実践が後という面があります。
瞑想というのは、まず頭でしっかりと理解していき、
それを感情レベル(潜在意識レベル)にまでしっかりと落とし込んでいくものです。
※厳密にいえば、考えのないところになんの実践も生まれません。坐禅にしたって「理屈よりも実践が大事」という「理屈」の元で坐るわけです。
ですのでまずは、しっかりと正しいことを理解していくことが必要になります。
そこで、まずは、自分自身にはなにも足りない物なんてないのだと、
ただ信じ、理解していくところから始まります。
②潔白 ~心の掃除~
潔白というのは、「あれができない」「これができない」ということを捨て去るということです。
「もう年だから」とか、
「忙しいから」とか、
「お金がないから」とか、
そういう言い訳をするのをやめていくということです。
心は本来潔白な物ですが、生きているとそういう汚れがついてきてしまいます。
自分自身を成長させていくために心の汚れ(間違ったものを信じる心)を落としていきます。
③清浄 ~心にかかった雲の後ろの月を見る~
例え理屈では正しいことがわかったとしても、感情的(気持ち的)に納得できるかというとそれはまた別な話です。
私達の本性は本来清浄ですが、時に、雲がかかって見えないことがあります。
それは日常生活の中で出くわす心配や悩みによって生まれます。
しかし、その雲の後ろには、相変わらず同じように輝く本来の自分の心があると信じていくことが三つ目の段階です。
④清涼 ~頭での理解から感情レベルでの納得へ~
心に対する正しい理解を持ったならば、次はそれを感情レベルまで落とし込んでいかなければなりません。
先程も書いたように、頭で理解することと感情レベルで納得できることとは違います。
心は本来清らかで涼しいものです。月のその清涼なる姿を見て、頭にのぼった血や、感情的な考え方を沈め、心は本来清涼であると感じていくことが4つ目の段階です。
⑤明照 ~見上げるからこそ見える月の光~
心の理解を通し、自分自身の心に向き合うことは、心に光を向けることと同じです。
月はその光を誰にでも普く届けてくれますが、その光に気づく人は月を見上げる人だけです。
心に目を向けたとき、心の中の闇に光が届いていくようになります。
⑥独尊 ~自らを拠り所として生きる~
お釈迦様が亡くなる際に、弟子たちは泣きながらお釈迦様に言いました。
「釈尊、あなたがいなくなったら、私たちは誰に教えを求めれば良いのでしょうか」
お釈迦様は答えて言います。
「弟子たちよ、おまえたちは自らを拠り所とし、正しい道理を拠り所とし、それを教えとして生きていけばいいのだよ」
成長していくということは補助輪を外していくということです。
月が独立して一人で空に浮かんでいるのを見て、自分もまた、自分を拠り所として、正しい道理を拠り所としてい生きていくのだと覚悟をするのがこの段階です。
⑦中道 ~道理に依って生きる~
それでは、その「道理」とはなんでしょうか。それは、両極端にならず、調和のとれた考え方をするということです。それが「中道」です。
しかし、真ん中を知るということは、両極端を知らなければなりません。
正しく中道を行くためには、多くの知識と経験を通して、考えていく力を身につけることが大切です。
道理に沿って進んでいくのがこの段階です。
⑧速疾 ~光陰矢の如し~
使い古された言葉ですが、その教えはとても大切なものです。
生も死も全ては無常であり迅速に流れていってしまいます。
そのことを実感し、この人生で少しでも人間的な成長を進めていくために、
迅速に努力をしていくこと。そのことの大切さを実感するのがこの段階です。
⑨巡転 ~自ら進み始める~
ここまで来たら、あとは自分で道を進んでいくことができるようになります。
心の本体を理解し、自らを拠り所として、道理に従って行き、生は本当に短いものだと理解し、迅速に心の修養に励もうと努力する。
月が自力で巡転するように、ここからは自分で道を見つけ進んでいくことができるようになります。
それが第九の段階です。
⑩普現 ~人々を照らす~
心の本性を理解し、自分の進むべき道を進んだら、今度はあなた自身が誰かのひと時の光明となり、この十の道を進めるように入り口を照らしてあげます。
瞑想はあなた自身が光明となる道
瞑想というのは最終的にはあなた自身が光明となり人々を照らしていく道です。
それはなにも難しいことではありません。
悩んでいる時や苦しんでいる時は自分の顔から笑顔が消えるはずです。
自分自身の心の悩みを晴らし、少しでも笑顔の時間を増やすことができたら、それが人々を照らすということです。
瞑想というのはそんなに立派な人になれということではありません。
昨日の自分よりもちょっと良い自分になれれば十分なのです。
月を見るたびに自分の心を鑑み、
精進努力する心を再確認していきましょう。