思いやり?おせっかい?余計なお世話のバランス感覚!

・生き方

毎日の生活の中で、

誰かのために何かをする機会というのがあると思いますが、

時に、それが本当に優しさや思いやりなのか、

はたまたおせっかいなのか迷うときがあります。

 

僕はその点に結構明確な基準を持っていて、

なにか事に出くわすと、必ずその基準で判断するようにしています。

 

今回はその基準を書いてみたいと思います。

 

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誰かのためになにか行動する基準

誰かのためになにかをしようとするときの基本的な基準は3つです。

 

①苦痛を取り除くためなら行い、楽をさせるためならやらない

②権利義務を侵害しない。ただし危急の際は危険を取り除く。

③権利の上に眠るものは助けない

以下、一つずつ見ていきます。

 

①苦痛を取り除くためなら行い、楽をさせるためならやらない

例えば、電車の中で子供を抱っこ紐で抱えている女性が乗ってきたとします。自分は座っています。この時、もし、その女性に旦那さんがいて、旦那さんは折りたたんだベビーカーを押しているとします。

その場合、僕は席を譲りません。

なぜなら、本当に苦しければ、旦那さんに子供を抱っこしてもらって自分はベビーカーを軽く抑える役に回ればいいし、満員でもなければベビーカーを組めばいいからです。

それをしないのは単に、面倒だからのはずです。

状況からみると、子供を抱えなおしたり、ベビーカーに乗り降りさせるのが面倒だから、ちょっとの間(目的の駅に着くまで)抱っこしていた方がいいという考えがあるから子供を抱いたまま立っていると考えられます。

この場合に席を譲ることは、女性の苦痛を取り除くことではなく、女性が惜しんだちょっとした手間をこちらが引き受けることになります。つまり、この場合に席を譲るのは、女性に楽をさせるための行動です。

 

しかしもし、子供を抱えた女性が一人で乗ってきて立っているとしたら、その時は席を譲ります。それは、子供を代わりに抱えてくれる人もなく、ただ大変な人だからです。その場合に席を譲ることは、その女性の苦痛を取り除くことになるので譲ります。

 

②権利義務を侵害しない。ただし危急の際は危険を取り除く。

例えば、お店にゴミが落ちているとします。その場合は、たいてい拾いません。(落し物は拾います)

それはなぜかというと、そのお店を美化することはそのお店の従業員や経営者の義務であるからです。他人の義務に手や口を出すというのは自分の分を超えた行いです。

もし、お店に落ちているゴミを僕が拾ってしまったとします。そしてもしその日はそのお店に偉い人が視察に来る日だったとします。仮にその偉い人が、落ちているゴミを見ていたとしたら、そのお店のスタッフの怠惰を見抜き、スタッフのレベルの改善につなげられたかもしれません。

もちろん、そんな偶然なんてあるかどうかわからないというと思います。だけど、分からないときこそ、自分の分を守り、他人の権利義務を侵害しないように気をつけなければなりません。

 

以前、スーパーの自転車駐車場にある自転車が、強風ではじから倒れているところに友達と通りかかりました。その友達は親切心からその自転車をすべて起こしました。

その人は親切でやっている気になっていましたが、よく考えると、その強風で自転車を起こしたところでまた倒れます。自転車が倒れればカゴが曲がってしまうかもしれません。通りがかりの人にぶつかってしまうかもしれません。強風が続く中、「倒れた自転車を起こすのが良いことだ」という一辺倒の考え方は故意なき器物損壊といっても過言ではありません。

もし、倒れた自転車が危険だというのなら、それはそのスーパーが対処しなければいけない義務です。

他人の権利義務を侵害して、損害を起こした場合には目も当てられません。

 

ただし、急を要する場合には例外があります。例えば、電車のなかであれば本来鉄道会社の権利義務ですが、車内に空き缶が転がっているような場合には即座に拾います。それは、鉄道会社の対処を待っている間に、その空き缶を踏んで怪我をする人が出てしまうかもしれないからです。

また、電車の中に財布などの落し物があっても、それを鉄道会社の義務だとほっておいたのでは、誰か悪意のある人に持ってかれてしまうかもしれません。そういう場合には適切に対処していきます。

 

③権利の上に眠るものは助けない

また電車を例にしますが、例えば、他の一般席が空いているのに、優先席の前に立って、そこを譲れと主張するような人には席を譲りません。

優先席というのは弱者の指定席ではありません。あくまで全席が埋まっている状況において、座りたい人を優先する場所です。自分で席を確保するちょっとした努力もせず、当たり前のように他人の道徳心に漬け込むのは、「自分は弱者なのだから助けられて当然だ」という体のいい脅しです。

ただまあ、ぼくは優先席には座りませんし、仮に、優先席に座っていたとして、一般席が空いているのにそこを譲れと言ってくるお年寄りがいたら、それはそれで譲りますけどね。

これは、判断基準としての一例です。

 

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まとめ

行動すべきかどうか悩んだら、僕は基本的に上記の判断基準に照らし合わせて決めます。というのも、自分が誰かのために何かをするのはいくらでもしようという気はあるのですが、気をつけないとそれは自分の傲慢な独りよがりになりかねないと思うからです。

こういう基準に照らし合わせて行動するということは、「誰かのために何かをする」という親切心から生まれる行動というよりも、ある特定の状況において機械的に行動することでもあります。合理的な判断基準に基づいて行動をするということは、仮に、自分が行った行為が、あだとなって相手から返されたとしても、「せっかくしてやったのに」というような恨みつらみを起こさなくなります。

仮に、誰かに親切にして、それを怒りで返されたとしても、「せっかくしてやったのに」と思うようではそれは本当の親切心ではありません。それは自尊心です。

物事の結果がどう評価されるのかは後になってからじゃないとわかりません。だからこそ、プロセスの適切さにこそ重点を置くことが大切だと考えています。

 

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